ハイチ視察訪問の記録
 2002年3月8日〜23日

 

ハイチ友の会代表 小澤幸子 Sachiko Ozawa

 第1話「ジョナタン」
 第2話「ロジェ」
 第3話「ユーリック」
 第4話「パスカル」
 第5話「ウィルニス」
 エピローグ

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 第1話「ジョナタン」

 私のハイチ訪問も4度目を迎えた。良くも悪くもハイチに慣れてきたせいか、到着したばかりでも、排気ガスの混じりの熱気を吸い込みながら車に揺られていると、あるいは朝、まどろみながらシスター達の賛美歌を聞くともなしに聞いていると、日本で医学生をしていたのはまやかしで、本当は去年からずっとこうしていたかのような気分になる。

 でも、今年のハイチ滞在はいつもと違った。ここ数年、寝泊まりさせて頂いているクリストロア宣教修道女会の修道院に小さな先客があったのだ。ジョナタン、推定3歳。いたずら盛りの男の子。静かなはずの修道院の中庭は、日に何度か彼の泣き声と、歩くたびにきゅっきゅっと鳴る彼のサンダルの音が響いていた。

 私はこのちびっことすぐ仲良くなった。言葉を覚え始めたばかりのジョナタンと、片言のクレオール語を話す私は同じくらいのレベルだった。もっとも、話し相手としての彼はイマイチで、私が理解していようがいまいが全くお構いなしだった。でも彼にとっては、自分の発する奇声ですら、基礎的なクレオール語の単語かしらと丁寧に聞いてくれる大人はいい遊び相手だったようだ。私の姿を見かけようものなら、遠くから「ボンジュール!」と甲高い声を響かせ、きゅっきゅっと駆け寄ってくるのだった。膝によじ登る彼の首筋のあたりから、汗を含んだ子ども特有の甘酸っぱい異臭がして、それが不思議といやではなくて、私は好んで彼を抱き上げ散歩をした。

 この愛嬌たっぷりのかわいらしい男の子は、実は孤児であった。今よりずっと小さいとき、修道院の前に捨てられていたところを助けられたのだ。細い手足はむくみ、皮膚はただれ、ぐったりとしたひどい栄養失調の状態でジョナタンは見つかった。生死の境をさまよったものの、手厚い看護で命拾いし、彼はほどなくクリスチャンのハイチ人夫妻に引き取られた。しかしその養子縁組の手続きが整わぬまま夫妻がマイアミに移住したので、ジョナタンの米国への入国許可は下りなかった。そのため修道院で一時的に彼を預かることになったが、ほんの1週間程度のつもりが、なかなか許可が下りず既に3ヶ月が過ぎ、まだ先の見通しも立たずにいた。

 ハイチに孤児は多い。ストリートチルドレンと呼ばれる身よりのない子ども達の中には、親は健在ながら生活力がないために、子どもに自活を迫らざるを得ない家庭も多くあると聞く。統計の未発達なこの国の状況を、印象だけで語ることは本来避けるべきだが、ハイチでは子どもの数の割に障害を持った児が少ないのも、弱い子どもは淘汰されていった結果であろうことは想像に難くない。そんな過酷な状況の中、ジョナタンは修道院で生き延び、そして今、米国へ渡ろうとしている。まさに彼はシンデレラボーイなのだった。

 彼の愛くるしい振る舞いによって修道院は笑顔に満たされていた。いつも快活な彼女達であるが、幼い命にふれて、さらに若返っているかのようだった。小さなジョナタンの身にふりかかった過去の不幸を、帳消しにせんばかりにたくさんの愛情が惜しみなく注がれていた。私は彼が米国に渡れなかったとして、このままここで暮らすのも悪くないのではとすら思った。

 ある晩の夕食のことだった。お利口に座って食事をするのに飽きた彼が食べ物でいたずらを始めた。年かさのハイチ人シスター、S.エジット(注:S.はシスターの意)がたしなめると彼は一気に不機嫌になってしまい、テーブルの脚を蹴飛ばしたり、隣の人の皿に手を伸ばしたりといたずらをエスカレートさせていった。この年頃の子どもにはよくあることである。S.エジットが再び注意すると、自分に優しいシスターのところへ駆け寄り、そこでも叱られるとまた別のスカートの影にまとわりついた。それを見てS.アイコがつぶやいた。「あの子にはやはり親が必要なのよ。叱られても自分にはこの人しかいない、という人間が。自分をいつも受け止めてくれる人が。そうでないとあの子はいつも周りの顔色をうかがうような子になってしまう」

 そう言われて見てみると、ジョナタンは確かにそんなそぶりを見せることがあった。叱られそうな雰囲気を察すると、それまで楽しく親密にしていてもなんとなく別の人のところへ行ってしまったり、大人の気持ちを引きつけるためか、わざとたどたどしく相手の名前を間違って呼んでいるように見えたりしたことがあった。何の屈託もなく幸せそうに見える彼も、孤児であるという重い十字架を背負っており、そしてここでは誰も、それを引き受けてはやれないのだった。

 その晩、ジョナタンは自分の味方がどこにもいないととると、シスターの手に噛みついた。泣き出すわけではないが、目を異様に光らせ、押さえられても身をよじって噛みつこうとした。彼の姿は帰る場所を失った戦士のようで、彼の武器は、生えそろったばかりの小さな歯しかなかった。いたいけな、小さな小さな歯しかなかった。

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ジョナタンの写真
ジョナタン

ジョナタンと筆者

 

 

 

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 第2話「ロジェ」

 実は、私はそんなに旅慣れている方ではない。そう告白すると、多くの人は冗談でしょうと言う。毎年24時間以上かけて地球の裏側まで行くっていうのに? なんでもそこは言葉も通じない貧しい国って話じゃないですか!? そうなんです。遠くの親戚を訪ねるみたいに、同じところに何度も行くものだから、いろんな国のいろんな事情に通じているわけではないんですよ。飽きませんか?ええ、ちっとも。ときにはバリ島の夕日やフィレンツェの街並みを眺めてみたいと思わなくもないですが、何度も出かけてやっとわかってくることも多いんです。それに友達もできますし‥‥‥。

 ロジェとダリーンは働き者の夫婦だ。ロジェはJICA専門家のYさんの運転手、ダリーンはYさんのお宅でお手伝いさんをしている。3年前にYさんが赴任されて以来、誠実な仕事ぶりで主人の信頼を得てきた。その実績が買われ、任期を終え帰国されるYさんの口添えもあって、ロジェは日本大使館付きの運転手に、ダリーンはおなじく大使館職員宅でお手伝いの職を得た。私たちのハイチ滞在中に、そのYさんのお別れパーティーがあるというので、今まで何かとお世話になってきた私たちもお邪魔することになった。Yさんのお宅は外国人が多く住む集合住宅地の一角にある。キッチンをのぞくと、ダリーンは久しぶりの再会ながら「マドモアゼル・サチコ!」と満面の笑みで迎えてくれた。こんな笑顔に会いたくて、私は何度もここに来るのかもしれない。

 ロジェ夫婦は共働きで安定した収入を得ており、子どもの数もそんなに多くない。ハイチでは珍しく、明るい未来を予想させる家庭を築いている。今回の、言ってみれば出世話を聞き、私はそれを信じて疑わなかった。

「ところがそうでもないのよ」

 Yさんの奥様が秘蔵の海苔で作った巻きずしを取り分けながらおっしゃった。このぱりぱりした黒い紙と格闘したのはダリーンだろうか。美しい仕上がりに3年の月日を思いつつお話しの続きを促すと、ハイチの家族観が浮かび上がってきた。

 ロジェはクレオール語の他に英語とフランス語を話す。Yさんの運転手になる前は、語学力を買われ、欧米NGOの現地スタッフをしていたこともあるという。そんな彼は一族きっての稼ぎ頭。たくさんの兄弟姉妹から頼りにされている。夫を亡くした彼の姉が、子どもらを連れてロジェ一家と同居を始めたのは一昨年のことだし、ダリーンの親戚も田舎から出てきては長く泊まっていく。時には金を無心されることもあるらしい。だから一家の生活は決して楽ではない。食べ物にも事欠く有様で、夫婦は空腹のまま出勤してくることも珍しくないそうだ。そんな話を疑ったわけではないだろうが、Yさんがロジェの住まいを訪ねると、小さな家は、夜どうやって眠るのだろうというくらい人でごった返していたらしい。

 自分の家庭をもっと大事にしなさい、というYさんのアドバイスに、ロジェはニコニコとうなずきはするものの、同居人は増え続ける一方で、貧乏暮らしも変わらないようだ。しかし、それを苦にしている様子もない。ロジェとダリーンから、日本のお父さん、お母さんと慕われるYさん夫妻はあきらめ顔で、お金で渡すと親戚に渡してしまうからと、ロジェ一家の口にも入るように、給料以外に時々米や砂糖を持たせることにした。

 ロジェ夫婦だけがお人好しなのかというと、どうもそうでもないらしい。当会事務局の松浦はN.Y.在住のハイチ人に友人を多く持つ。N.Y.のハイチ人の間でも、持てる者が持たざる者と分かち合うことは珍しくないそうだ。ハイチは共産主義国ではないが、皆がこんなふうに分かち合うのなら、世界一素晴らしい国になったかもしれない。しかし、ハイチは国の富の9割を国民の1%が所有していると言われている。貧しい者同士がしんどい毎日を生き抜くために、なんとか融通しあっていると見るのが正しいのだろう。

 さて、昨年末、ロジェのお母さんが亡くなった。ハイチ人は身内の死を、文字通り身だえして悲しむ。胸をかきむしり、床に転げ回って、大声で泣き叫ぶ。「ああ○○、どうして死んでしまったの〜!!!」葬式の教会では悲しみの絶叫がこだまし、失神する人が続出する。取り乱さず立派に葬式を取り仕切ることで身内の死を乗り越えていく日本人にとっては考えられない光景である。母親を失ったロジェの悲しみも深く、死からひと月が過ぎてもまさに抜け殻のようだった。仕方なく日本大使館では彼に休暇を与えたが、このままだとせっかくの職を失いかねないとYさん夫妻はずいぶん心配されたようだ。

 パーティーの翌々日、私たちが大使館を訪ねると、職場に復帰したばかりのロジェがいた。

「ボンジュール、マドモアゼル・サチコ!」

 少し痩せたようだが、思っていたより彼は元気そうだ。

「憶えててくれたのロジェ、どう、元気?」

「ハ〜イ、元気ィ。でも僕の日本のお父さん、お母さん、日本に帰っちゃう〜。僕のホントのお母さん、去年死んじゃったァ」

「‥‥‥」

 ロジェはラッパーのように両手を大きく広げ、歌うように言った。晴れやかな笑顔。気味が悪いほどテンションが高い。接客も仕事の一つらしく、彼は私たちを応接室に案内し、ソファーにかけさせると、飲み物を取りに踊るように奥へと消えた。

 後日Yさんに再びお会いした際、ロジェ、すごく元気でしたけど、と問いかけてみた。Yさんはため息混じりに、まだ本調子じゃない証拠ですよとおっしゃった。なるほど、鬱の反動の躁状態なのかもしれない。でも、なんだか狐につままれたような気分だった。

 ここ一ヶ月の間、首都では全く雨が降らなかった。それなのに私たちが到着した夜から、毎晩、バケツをひっくり返したかのように雨が降り始めた。雨期にはまだ早いはずだが、何もかも公式とおりには行かない国だ。ハイチの人間模様も複雑怪奇。何度も出かけてみても、わかりそうでわからない。これだからハイチはやめられない。私の飽くなき定点観測は、これからも続く。

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 第3話「ユーリック」

 ハイチに出会った頃の私は、大学で社会学を専攻していた。大学の勉強よりも緊急援助ボランティアの方に熱心だったが、1994年11月、軍事政権崩壊直後のハイチの国立総合病院を訪問していなければ、全く違った人生を歩んでいたことだろう。病院を取り囲む長蛇の列、床に寝かされ息絶えていく病人、足りない機材、薬品、スタッフ。おそらく開発途上国ではありふれた風景だろうが、二十歳そこそこの学生には大きな衝撃だった。何もできない自分が歯がゆかった。青臭い感傷かもしれないが、あの日を経たからこそ今、私は医学を学んでいる。

 今回の渡航にはハイチ友の会と離れて、重大なミッションがあった。私の属する山梨医科大学は、2年前の教授会で大学としてハイチの医療支援に取り組んでいくことを決定した。それを受け、まずは人的交流をということで2001年1月から12月まで寄生虫・免疫学教室でハイチ人研修生1名を受け入れた。しかしその後ハイチから目立った要望もなく、状況がわからないだけに山梨医大からも具体的な支援策を提示しかねたらしい。残念ながら支援の展望が描き切れていないようだった。

 渡航を約2週間後に控えたある日、大学上層部から内々にご相談を受けた。「あなたの目で、今、ハイチの医療に何が必要なのか見てきて欲しい。そしてできれば有機的な提案が欲しい」と。よおし、こうなったら素晴らしい提案をしてやろう。私は俄然、張り切った。

 そんな私の意気込みは灼熱のハイチの日差しの下にとろけていった。まず訪れた国立総合病院は、患者の大半が最貧困層であるとはいえ、米国の援助でここ数年のうちに施設は格段によくなりスタッフも増えた。しかし外科病棟のベッド数と疾病傾向を確認しようとしただけなのに、ナースステーション(と言ってもプライドは高いが手持ち無沙汰なだけの看護婦のたまり場)と病院統計室とをたらい回しにされ、小一時間かかって誰もそれを把握してないことだけがわかった。まして病院全体、国全体の統計など知るよしもなかった。日本大使館でもハイチの医療状況について正確な情報はつかめておらず、Yさんにやっと見つけてもらった国連開発計画(UNDP)による人口統計の資料は、104ページ全てがフランス語で埋め尽くされ、読解の気力を奮い立たせるにはかなりの努力を要した。それでも放り出すわけにはいかない。私は味のなくなったガムを惰性で噛み続けている気分だった。

 そうだ、ユーリックに話を聞こう。

 彼こそ昨年、山梨医大で研修した医師だった。彼は血液疾患を専門とする51歳の男性医師で、山梨に滞在中は親しくつきあった友人だった。受け入れが決まった当初、私はもっと若い研修生がくると思っていたので、異文化での11ヶ月間もの一人暮らしに、50代の男性が適応できるだろうかと心配した。しかしそれは杞憂に終わった。実際の彼はとても若々しく柔軟な人だった。ただ、自国に帰れば然るべき地位にあるのだろうか、実験上の細かな手技の習得にはあまり熱が入らなかったようだ。帰国直前はお互い忙しくてゆっくり話せなかったが、彼は山梨医大の事情にも通じている上、彼の長女は国唯一の医学教育機関であるハイチ大学医学部に入学したばかりだ。相談相手にこれ以上の適任はいないだろう。早速会う約束を取り付けた。

 修道院のマンゴーの木の下で、私たちはプラスチックの椅子に腰掛けて話し始めた。遠くの小高い丘に白く見えるのは貧民街のブロック塀だ。午後の黄色い光につつまれたそれは、古代文明の遺跡のようにも見える。

「あなたの後に続く研修生を推薦してもらえないだろうか」

 身を乗り出して尋ねる私と対照的に、彼は体をぐったりと椅子に預け、神経質そうな手つきで口ひげをしごいていた。他の多くのハイチ人と違って、彼はいつも悲しげな雰囲気を漂わせていた。

「そんなに簡単なことじゃないよ」

「どうして。お金は日本側が出すわけだし、悪い話じゃないと思うけど」

「でも、行くメリットがないんだよ」

 ユーリックが語り出したハイチの医療事情は、私が予想していたよりも遙かに混沌としていた。

 現時点では山梨医大にハイチ人医師を招いたとしても、研究室所属の研修生として基礎研究に取り組んでもらうことになる。現にユーリックはクリニックを開業する臨床医であったが、山梨では大学院生と一緒に免疫学的手法の数々を習得した。それらは臨床で応用できるものばかりではなく、ハイチにはない大がかりな機器を要するものもあった。加えて、研究職のポストはハイチでは無いに等しい状況で、学位や外国での研究成果が評価されることは期待できないらしい。ユーリックにとって細かな手技は下々の仕事だから馬鹿馬鹿しくてできないのかと誤解していたが、そもそも技術を活かす環境がまだハイチでは整っていないのだった。

 ハイチ人医師の中にはチャンスがあれば貧しいハイチを脱出し、欧米で医療活動をしたいという人が少なくない。国に残るとしても、首都はともかく、地方で地域医療に携わりたいという奇特な人は天然記念物に等しい。現在も地方は慢性的に医者不足で、隣国キューバから派遣された約500人の医師がハイチの地域医療を担っている。貧乏人相手の国立病院の勤務医になるよりも、首都で金持ち相手に自分のクリニックを開業するのが王道なのだ。

 そうだとしても熱意ある若手医師にとって、日本で研修を受けることにはメリットがあるのではないだろうか。しかしそんな認識は甘かった。私の印象ではハイチは日本より医薬分業が進んでいるように見えたが、実際は医師が薬局を経営し、その収入で生活しているパターンが断然多いらしい。患者が付いていない若手ほど薬局の売上げが死活問題となる。たとえ日本滞在中の全ての経費を日本が負担してくれたとしても、その後ハイチに戻ることを考えれば1年のブランクはかなりの痛手となる。仮に滞在中のみならず帰国後の面倒まで見たとしても、英語で高等教育を受けられる人材は限られており、優秀な人ほど基礎研究だけでなく診療行為も可能で、言葉にハンディキャップの少ないフランスでの研修を望むそうだ。

 ユーリックとて、望んで日本に来たわけではなかった。彼の訪日はハイチ政府たっての要請だったらしい。彼は英語が堪能だし、臨床検査技師の妻に留守中の薬局を任せられ、家族の生活レベルは下がらずにすむ。それにハイチで医療活動を行ってきた実績があるので復職もしやすい。これがハイチ医療支援の真相だった。

「それにこの国では努力が報われないんだよ」

 ユーリックはだんだん早口になっていった。最大の問題は、医師免許の尊厳の耐えられない軽さだと言う。医師免許を持っていようがいまいが、開業しようと思えば簡単にできてしまう。例えば彼のクリニックの隣に別の人が開業したとする。その人がモグリの医師であっても患者は流れるし、現実に誰もその違法行為を取り締まれない。彼の意地であろうか、彼のクリニックには免状が額に入れて飾ってあるが、それに注意を払う人は誰もいないそうだ。

 私はKO寸前のボクサーのような体たらくだったが、弱々しく最後の抵抗を試みた。

「じゃあ、日本からハイチの医学生の経済支援をするというのはどう?」

 我ながら、それはいいアイディアのように思えた。ハイチ友の会は去年から家庭の経済的な事情で就学が困難な児童に対し、奨学金制度を実施して好評を得ている。同じようなことが大学レベルでもできないだろうか。ハイチのこれからを担う医療者を育てるというのも夢がある。

「でもサチ、学費はただなんだよ」

 ‥‥‥なんてことだろう。ハイチ大医学部の学費は全部国費でまかなわれているので、後期中等教育(中学・高校に相当)を終了し、入学試験に合格する学力さえあれば、誰でも医学部で学ぶことができるというのだ。

 さらに言えば、中学、高校に進学できるのは、ほとんどが恵まれた家庭の子どもである。多くの子どもが小学校にすら通えないというハイチの状況を考えれば、医学部の門戸は大きく開かれているようでいて、実質的にはお金持ちの子弟しか入学できない仕組みになっていると言わざるを得ない。

 激しい徒労感が私を襲った。一体どうしたらいいのだろう。ODAを初め、日本の国際協力活動としてのいわゆる「箱もの支援」は近年評判が悪い。ダムや病院建設は結局は日本の大手商社・建設業者を富ませるだけで、現地のニーズに必ずしも沿っていないとの批判は、海外事情通でなくとも聞き覚えがあるだろう。時代の流れを受け、山梨医大としては施設や医療機器機械をむやみに贈るのではなく、「顔の見える援助」を実践しようという心意気があった。ところが実態が明らかになるにつれ、医療分野の支援にこだわるならば、医療機器支援あたりがもっとも現実的かつ効果的に思えてくる。

 いつしか太陽は西に傾き、丘の上の古代遺跡は魔法を解かれ、さび色をした汚いトタン屋根が目についた。ユーリックは「今日話したことは全て、僕の個人的な見解に過ぎない」と断った上で、静かに帰っていった。

 

 ハイチを去る日の朝、ユーリックがホテルに訪ねてきた。山梨に滞在中お世話になった先生方に贈るカードを私に託しに来たのだ。そしておもむろに、いつか君がハイチに医者として来る日を楽しみにしている、だからよく勉強するようにと言った。特に感染症や妊産婦疾患の勉強をね。ハイチではまだそういう病気が多いから。

「サチ、焦っちゃダメだよ。一歩ずつ、一歩ずつ、ね」

 彼はstep by stepと何度も繰り返した。そう。一歩一歩、私たちは歩き続けなければならない。その道をいつか、柔らかな光が照らすことを信じて。私は同志の差し出した手を強く握り返して、新たな一歩を踏み出すことを誓った。

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ハイチの薬局

道で暮らす子供たち。学校には行けません。

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 第4話「パスカル」

 パスカルは17歳。カナダ人だ。この春、母親と二人でハイチに「バカンス」にやって来た。よりによってなぜハイチかというと、それは彼と、おそらく彼の実の両親が生まれた国だからだ。17年前、彼は国際養子縁組によって常夏の国から平均気温12℃の国へ渡った。それ以来、初めての祖国訪問である。

 母親のマダム・シュザンヌは看護婦だ。敬虔なクリスチャンでもある。パスカルの上と下に自分の子どもがいるが、彼女は養子を望んだ。神様の愛から最も遠い子を自分の子どもに。ただそれだけを条件とし、彼女は国も人種も選ばなかった。そしてパスカルが与えられた。家族は無条件に彼を愛した。肌の色の違う親子は時に奇異な目で見られたが、以来、二人は特別にハイチを意識することなく幸せにこの春を迎えた。

 パスカルは素直ないい子だ。でも移民に寛容で、国際養子縁組が盛んなカナダ育ちとはいえ、多感な年頃の青年が自分のルーツに疑問を抱かないはずがない。自分の本当の両親に会いたい。その強い願いは母を動かした。思春期を過ぎ青年として独り立ちを目前に控え、親子は春の休暇にハイチに行くことを決めた。

 ところが驚くべきことに、パスカルとマダム・シュザンヌはハイチについて何の知識も持ち合わせていなかった。「南の貧しい国」という認識はあったが、空港に降り立った親子は強い衝撃を受けた。空港を取り巻く黒山の人だかり、砂埃舞う穴だらけの道路、裸の子ども、山肌を覆うスラム、なにより粗野で無遠慮な視線、視線、視線。連れだって歩く肌の色の違う二人に詮索とやっかみのまなざしは容赦なく降り注いだ。やっとの思いで高台のホテルに逃げ込むと、時折テラスから外をのぞくだけでほとんどの時間をそこで過ごした。しかしホテルとて安住の地ではなかった。シャワーのお湯がでない、バスタオルを毎日替えてくれない、蚊に刺されて夜も眠れない。帰国を前にして空港に近いカゾーの修道院に移ってきたとき、マダム・シュザンヌは身振りを交え大袈裟に自分たちを襲った悲劇について語った。「だってここはハイチだから」で片づいてしまう話にも、シスターたちは優しく相づちを打ち、二人のために質素だが清潔な部屋を整えた。

 雄弁なマダムに比べ、パスカルは終始黙ったままだった。シスターにハイチの感想を求められても、短くウィとかノンとか答えるだけで、食事がすむとすぐ自室にこもり、皆と談笑するようなことはほとんどなかった。まだあどけなさの残るチョコレート色の額に伸ばしかけのドレッドヘアがいたずらっぽく垂れ下がり、黙々と目の前の食事を腹に納めている姿はどこにでもいる17歳だ。でも母親が言うには彼も相当ショックを受けているらしい。それはそうだろう。同じ顔をした同胞なのに、言葉も通じないなんて。冷房の効いた車窓から眺める風景の、あちら側にいたのは本当は彼だったかもしれないのだから。

 後で知ったことだが、カナダを発つ前、マダムはパスカルを実の両親に会わせることについてずいぶん思い悩まれたそうだ。熱心なクリスチャンである彼女は教会に救いを求めた。そしてパスカルとの出会いに関連した人を通じ、こっそり彼の生い立ちを調べてもらっていた。そうしてハイチに渡り、徐々に明らかになった事実は悲惨なものだった。彼は生後まもなくゴミ箱の中から見つかった。両親は誰だかわからない。もう少し発見が遅ければ助からなかった。教会の前にジョナタンを置き去った人は、彼の未来に微かな希望をかけた。でもパスカルをゴミ箱に置いたとき、その人はパスカルの未来を想像できなかったのだろうか。この事実はマダムをさらに苦しめた。マダムは息子にこの真実を伝えるべきか、答えを求めて祈り続けていた。

 カゾーについた晩、マダム・シュザンヌは高熱を出した。これまでも毎晩、悪寒がして熱も出ていたらしい。ひどく蚊に刺されており、ひょっとしたらマラリアかもしれない。翌日、首都の病院に検査に出かけることにした。パスカルは自分も行くが、空港の近くで降ろしてくれと言う。腕にはバスケットボールを抱えている。言われるまで気が付かなかったが、そういえばそこには古いバスケットのゴールがあり、炎天下、若者たちがゲームを楽しんでいた。彼は大学に進学したら体育学を専攻したいという夢があった。一番好きなスポーツはバスケットボールだ。みんなの心配をよそに、パスカルは車から降りた。その時、彼の胸にどんな思いが詰まっていたかわからない。動き出した車から振り返ると、パスカルはもう人混みにとけ込んでしまい、後を追うことはできなかった。

 その日から、パスカルは毎日バスケットコートに出かけていくようになった。どうも友達ができたらしい。ボールが言葉の不足を補ってくれた。ある時など、夕食の時間を過ぎても戻らないので、みんなでやきもきしていると、タプタプが途中でパンクしたので友達とずっと歩いてきたと、目を輝かせ、汗びっしょりになって帰ってきた。未だにひどい朝寝坊で、朝食の席ではついぞ見かけたことがなく、「僕のペプシは?」なんてお坊ちゃんみたいなことを言って驚かせるが(修道院では炭酸飲料は訪問客のための贅沢品)、自分の使った食器は不器用ながらもきちんと洗うようになり、彼は数日のうちにずいぶん大人っぽくなった。

 検査の結果、マダム・シュザンヌの発熱の原因はマラリアではなく尿路感染症のためと判明した。マダムは療養の日々、シスター達と静かな対話を重ね、人生には知らなくてもいい真実があるとの答えを導き出した。「パスカル、努力してみたけれどあなたの両親は見つからなかったわ」そう伝えたとき、彼がどう受け止めたかわからない。それからしばらくして親子はハイチを離れた。だが最後に見送った彼の横顔は妙にすっきりしていた。

 パスカルに祖国はありのままをさらけ出して迫った。

 道ばたのゴミの腐臭、特大サイズのマンゴ、道を譲れと車の窓越しに怒鳴りあう男達。彼は自らを街に放り出すことで、誇りに思うとか、恥じ入るといった強い感情を抱く間もなく、自分に流れるハイチの血をさりげなく受容したのではないだろうか。たとえば私たちがたまにきちんと正座してみると「あ、日本人なんだな」って思うように、強い日差しを浴び、タプタプに揺られ、ララバンドの喧噪を遠くに聞きながら、すとんと「ああ、ここは僕の生まれた国なんだな」と。

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水汲みに行く子どもたち

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 第5話「ウィルニス」

 

前略

 初めまして。ハイチ友の会の小澤幸子と申します。ハイチ音楽に興味をお持ちで、ご旅行を検討されておられるとのお手紙、確かに拝受致しました。

 あなたがハイチについてどれだけご存じかわかりませんが、開発途上国の中でも、なかなかたいへんな国であるとの認識でお出かけいただきたいと思います。私たちはハイチに愛着を覚え、ささやかながら支援させていただいている者ですが、それだけに、誤った認識でハイチにお出かけになった方が、想像と違う現状に失望されることを何より残念に思っているからです。以下、不十分ではありますが、ご旅行に最低限必要と思われる情報をお伝え致します。

 まず、英語は日本以上に通じないと思ってください。現地の人はクレオール語を話します。基本的に明るい国民性ですが、日々の暮らしにも困る人が大多数ですし、外国人に取り入ろうとすることもあります。物価は日本とさして変わりません。もし女性お一人であるなら、安宿に泊まるような冒険はなさらないで、ちゃんとしたホテルにお泊まりいただいた方が賢明でしょう。料金は日本のリゾートホテル並みで、利用者は外国人か米国でビジネスをしているハイチ人が中心です。そういうホテルでしたら、ハイチ音楽や何かのショーをやっているかもしれません。

 ハイチにはグールドという単位の通貨が流通していますが、慣習的に5グールドが1ハイチドルとされています。ハイチ人はハイチドルを「ドル」というので、慣れないとうっかり米ドルで払ってしまいがちです。すると1米ドル=約5ハイチドルなので(レートは大使館などでご確認下さい)、5倍の支払いをすることになります。カモにされませんようお気を付けください。そして当然のことながら、町に出るときはくれぐれも目立たず、大金を持ち歩かないことが重要です。

 タクシーのシステムはとても複雑です。まず見分け方ですが、普通の乗用車で、フロントガラスに赤いリボンを結んでいるのがタクシーです。タクシーを見つけたら、乗車前に行き先を言って必ず値段交渉をします。うっかりそれを忘れると、法外な料金を請求されることがあるので要注意です。首都は坂が多いのですが、燃費が勘案され、上りの料金は下りより高いです。また、相乗りが当然な上、漠然とルートが決まっております。そのため違う方面へ行きたい場合、乗車を拒否されることもあります。その路線のようなものは1、2年住んだ方でもなかなか理解に苦しむそうです。なお、タプタプと呼ばれる公共交通機関もありますが、それはカラフルな原色のペンキに彩られた改造ワゴンやバンなどで、タクシーより厳密に路線が決まっておりますが、乗り降りはどこでも自由です。

 カップハイシャンなどの地方へ行く遠距離バスは、ポルターレオガンという首都の南西地域から発着しております。目的地が遠ければ遠いほど早朝4時くらいから乗客がつめかけます。乗車するには中古バスやトラックのどこかにクレオール語で書いてある目的地を読みとるか、車掌に目的地を聞いて乗り込むのですが、乗車率が150%になるまで発車しません。つまり、決まった停留所や時刻表はなく、決まったスタイルのバスが走っている訳でもないのです。こんな感じで、交通網については秩序だった情報はないという状況です。

 昨年12月にはクーデタ未遂事件がありました。正直に申し上げまして、この時期に、現地に知人・友人がおられない状況で、言葉や通貨システムに不慣れなまま、お一人で文化探訪を目的にお出かけになることに非常に不安を覚えます。慎重にお考えの上、ご旅行の計画を練られてください。そして、ご家族の理解を必ず得られた上でお出かけください。

 なにかご相談がありましたら、どうぞ下記のメールか電話番号にお問い合せください。それでは失礼致します。

 かしこ

2002年2月8日

○○様

小澤幸子
ハイチ友の会代表
sachi-o@wa2.so-net.ne.jp
phone/fax:055-000-0000

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 ハイチを離れる前日の夕方、松浦さんと私はホテル・オルフソン周辺の比較的安全な地域に散歩に出かけた。それまでの移動はほとんど車だったので、最後にどうしても歩く速さで街を眺めてみたくなったのだ。4度目の訪問で言葉が多少わかるとはいえ、シスターの案内もなく首都の街を二人だけで歩くのは初めてだった。恨みでも買っていない限り、外国人に危害が及ぶことはまずあり得ないが、近年、治安の悪化が度々報告されている。二人とも敢えて不安を口にしなかったが、それはちょっとした冒険だった。

 ハイチの人種構成は国民の9割が黒人、残りは混血と白人。黄色人種は極めて稀である。一歩街に出ると、案の定、私たちは注目の的となった。こんなときの一番の対処法は無遠慮な視線を正面で受け止め、こちらから先に「ボンソワー(こんばんは)」と挨拶すること。返事はほぼ100%返ってくる。路地にたむろする若者の一団とすれ違うときは、つい財布の入った袋を持つ手に力が入ったが、挨拶を交わすうちに次第に緊張もほぐれてきた。

 「ハイチ」とは本来、先住民の言葉で「山の多い土地」という意味である。急な坂道を、仕事帰りのマダムや水汲みに行った子どもたちと同じように汗をにじませて登る。ハイチで暮らすということがどんなことなのか、かすかに感じとれた気がした。時間は皆に平等にゆったりと流れ、空は薔薇色から藤色に見事なグラデーションに染め上がっていた。

 満ち足りた気分で街をそぞろ歩いていると、一軒の家の前で手書きのポスターに目が止まった。我々は謎の壁画を前にした考古学者よろしくその解読に取りかかった。どうも明日、何かのセミナーがこの家であるらしい。しかし肝心のテーマがわからない。ああでもない、こうでもないと首をひねっていると、その家から赤いゆったりとしたワンピースを着た若い女の子が顔を出し、何かご用ですか?と英語で話しかけてきた。

 通りすがりの者だけど、ちょっとこのポスターが気になって‥‥‥と応じたが、女の子はきょとんとしている。どうも英語が得意なわけではないらしい。でも、恥じらいと好奇心が入り混じったよく動く目は、彼女が異邦人との出会いにわくわくしていることを雄弁に語っていた。怪し気なクレオール語と英語を錯綜させた後にわかったのは、ここはアフリカ文化研究所という民間の研究機関で、明日は文学関連のセミナーがあるということと、彼女はウィルニスという名前で、絵を描くのが好きな17歳ということだった。そうこうするうちに私たちの周りには人が集まってきてしまった。ウィルニスはちょっぴり誇らしげに「この人たちは日本人なのよ」と事情を説明していたが、リーダー格の若い男性がノートを差し出し、ここに住所と電話番号を書くようにと訛りのきつい英語で言った。

 さて困った。確か、前にもこんなことがあった。見学に訪れたある現地NGOの若い担当者と名刺交換をしたところ、帰国後に手紙が届いたのだ。「僕は米国の大学院で開発学の勉強をしたい。この件については組織にはナイショにして欲しいんだが、ついてはスポンサーになってくれないか」そういって結構な金額を要求された。そのとき、私は返事を書かなかった。そんな手紙は一度きりだったが、結構したたかだなあと苦笑いすることもあれば、もし私が彼の立場だったら、無視されたことをどう感じただろうと想像をめぐらす日もあった。

 私たちは今夜はホテル・オルフソンに泊まっているが、明日にはハイチを発つことを説明し、彼らがインターネットを利用しているようだったので、メールアドレスだけ渡してその場を収めた。ウィルニスは自宅の住所を書いたメモをくれたが、彼女ともおそらくもう会うことはないだろうと思いながら、さよならを言って別れた。

 ホテルに戻り荷作りをしていると、ロビーから電話がかかった。

「○×△という方がいらしています」

 なかなか聞き取れない。

「はぁ?ユーリック?それともジェイミー?」

 ここを訪ねてきそうな人の名前を片っ端から言ってみる。

「○×△さんです」

「???‥‥‥とにかくそちらに行きますから、待ってて」

 松浦さんはシャワー中だったので、仕方なく部屋に鍵をかけ、一人でロビーに向かった。誰だろう。何となく不安になる。

 オルフソンのロビーはこぢんまりとしているが、そこに知っている顔はなかった。愛想のないホテルマンを捕まえて、ちょっとどうなってるのよと聞いていると、背後から遠慮がちな声がささやいた。

「私のこと、忘れたの?」

 振り向くと、少し緊張した面持ちのウィルニスがいた。髪をきれいに梳かしつけ、緑色のシャツにぴったりとした同系色のパンツといういでたちだった。街で見かけるおしゃれな女の子はみんなパンツスタイル。流行のおしゃれを精一杯してきたのがよくわかった。

 なぜ、という疑問とほぼ同時に後悔と当惑が脳裏をかすめた。あんなところで無防備に長々と立ち話なんてするんじゃなかった。ひょっとして、またスポンサーの申し込み?だとしたら私も親のすねをかじっている身分、とても力になれない。

「ごめん!忘れたわけないじゃないの!でも急にどうしたの?」

 自然な笑顔だったか心もとないが、何気なさを装って用向きを尋ねた。すると彼女は自分の描いた絵を見せに来たのだと言って十数枚のデッサンを差し出した。

 アリスティドの肖像、半裸の女性、ブードゥの儀式‥‥‥。大きさが不揃いな粗悪な紙に、繊細な鉛筆の濃淡が様々なテーマを浮かび上がらせていた。やや幼さを感じるものの、今にも動き出しそうなこれらの素描は、モデルを前にしたのではなくイメージだけで構成したそうだ。一枚一枚丁寧に眺める私の横顔を、ウィルニスは期待と不安がないまぜになった瞳でじっと見つめていた。とても素敵ねと褒めると、白い歯を見せて笑い、どれでも好きなのをあなたにあげると言った。こんな大切なものをと躊躇する私に、彼女はまた描くからいいのと言ってはにかんだ。

 私はもう何も勘ぐることなく、右膝をたてて座るあごひげをたくわえた男性の肖像を選び取った。

 それから他愛ない話をした。私たちは10も年齢が違ったが、昔から友人だったかのようにきゃっきゃとはしゃぎながら会話を楽しんだ。もっとも、私のクレオールの語彙が少ないため、幼稚な会話しかできなかったが。彼女は私を自宅の夕食に招待したいと言ってくれたけれど、他にもう約束があったので丁重に断った。なんだか残念なような、でもほっとしたような複雑な気分だった。外はすっかり暗くなっていた。今夜も雨が降るようだ。

 そういえばウィルニスは、支援先や修道院から離れた人間関係の中で、友情らしきものが芽生えた最初の人だった。物怖じしない伸びやかな感性が、新しいハイチを創っていく。彼女は軽く頬を上気させ、素晴らしい笑顔を残して帰っていった。
(※ この章トップのイメージは、ウィルニスの描いた絵です。)

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遠距離バス

 


坂道がぬかるんで登れないときは、どこからともなく子どもたちが現れて押し上げてくれました

 


炭焼きのための乱伐ではげ山が連なります。現金収入を求め、人々は限界を知りながらもやめることができません
 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 エピローグ

 そういえば、蝉の声を聞いた憶えはないな‥‥‥。

 じりじりと肌を焦がす日差しはハイチを思わせるが、8月の甲府盆地はやはり全然違う。ハイチの音といえば、時計代わりのニワトリの鳴き声、ララバンドの太鼓、手作りの木琴みたいな響きのクレオール語。あるいは間延びした山羊のため息。若者が羽目を外したのだろうか、お祝いのクラッカーのパンパンという乾いた音に微苦笑していると、あれは銃声だと教えられ、ここが楽園から最も遠い場所であることを思い知らされる。

 私とハイチとのつきあいは今年で8年目を迎える。

 出会いは確かに強烈だった。私の胸を突いた圧倒的な貧困、それが私をハイチへの行動に駆り立てていると思っていた。でも今はそれだけではない気がする。

 だって、私に何ができただろう。一つの学校に本がもたらされ、机が整い、何人かの子ども達が学校に通えるようになった。そんな学校が二つに増えた。その一方、どこかの田舎で教師の給料が払えず学校が閉鎖に追い込まれ、200人の子どもが学ぶチャンスを失う。まさに賽の河原に石を積むような取り組みである。本当にハイチはこの8年でよくなっているのだろうか。

 でも、多くの出会いを通じて、どんなハイチでもさりげなく受け止められるようになった今、私は様々な表情を見せるハイチの友人たちとの出会いを心から楽しんでいる。現地を訪れ、出会いを紡ぎ、日本にそれを伝えることが、私の中で大きな喜びとなっている。

 南の島はいつも同じ日差しが照りつけ、何も変わらないように見えて、ちゃんと季節はめぐっている。早生のマンゴーが市場に出回り、恵みの雨を待つ3月、私はまたあの島を訪れるだろう。人々の生きる喜びと哀しみを心に刻みつけるために。

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ハイチ友の会
http://friendsofhaiti.home.mindspring.com/

Copyright 2002 Sachiko Ozawa

 <HTML採録 NPO地域資料デジタル化研究会 2002年11月>